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京都地方裁判所舞鶴支部 昭和56年(た)1号 決定 1985年8月20日

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

(本件再審請求の適法性)

本件再審請求は海軍軍法会議法(大正一〇年法律第九一号)に基づき、昭和二〇年二月二三日舞鶴鎮守府軍法会議が言い渡した有罪の確定判決(以下「原確定判決」という。)に対するものである。そこで、軍法会議判決の再審に関する法令について検討するに、海軍軍法会議法には再審に関する規定があつたが(同法四七五条以下)、昭和二〇年勅令第五四二号(「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件)、同年勅令第六五八号(第一復員裁判所及第二復員裁判所令)により常設軍法会議(舞鶴鎮守府軍法会議も含まれる)は廃止され、復員裁判所が設けられ、同裁判所が軍法会議に関する規定を適用することとされ、その後昭和二一年勅令第二七八号(昭和二〇年勅令第五四二号ニ基ク陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法及第一復員裁判所及第二復員裁判所令廃止ニ関スル件)により、海軍軍法会議法及び前記復員裁判所が廃止され、その後継裁判所は当該復員裁判所の所在地を管轄する地方裁判所とされ、軍法会議の言い渡した確定判決に対する再審の原由は旧法又は旧令の定めるところによるものとされたが、更にその後昭和二七年法律第八一号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律)が成立し、同法は、前記昭和二〇年勅令第五四二号を廃止するとともに、同勅令に基づく命令は別途法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、右法律施行の日から起算して一八〇日間に限り法律としての効力を有するものとしたが、右勅令に基づく前記勅令第二七八号については、右期間内に何らの措置が講ぜられなかつたため、同勅令は法律としての効力を失うに至つた。

以上の法規改廃の経緯のみからは、軍法会議の言い渡した確定判決に対する再審請求手続の存否及びその根拠は法令上必ずしも明確とは言い難い。

ところで、軍法会議により言い渡された確定判決の効力自体は軍法会議関係の法令が廃止されたからといつて当然消滅するものではないから、判決が有効であることを前提とする訴訟上の一手続たる再審制度も否定しえないものであり、海軍軍法会議法は軍人等の犯した犯罪について海軍軍法会議が裁判をすることとし、旧刑事訴訟法(大正一一年法律第七五号)の特例としての手続を定めたものであるから、特例法たる海軍軍法会議法廃止後は一般法たる刑事訴訟法の規定によつて再審請求は可能であるというべく、その手続は刑事訴訟法施行法二条により前記旧刑事訴訟法に従うべきものと解される。

よつて、本件再審請求自体は適法なものというべきである。

(原確定判決の内容)

原確定判決の判決書謄本によれば、請求人の亡父臼井弘は

「昭和一三年七月一一日舞鶴海軍工廠第一造兵部航海工場ニ臨時工員トシテ入業爾来累進シ同一六年一〇月頃ヨリ同工場作業係航海班現品役々長ト為リ官給材料並ニ艦船兵器修理及新製兵器材料ノ保管ヲ担当シ居タル者ナル処欲心ニ駆ラレタル結果犯意ヲ継続シテ同一七年六月下旬頃ヨリ同二〇年一月中旬頃ニ至ル迄ノ間前後十数回ニ亘リ同工場現品倉庫ヨリ自己ノ業務上保管ニ係ル時価合計三十六円八十一銭ノ官品綿テープ一巻、同白木綿大巾二米、同電燈遮光覆二個、同晒木綿、麻糸各二十米、同護謨紐五米、同木綿糸一掛、同電線五米、同ガーゼ三百瓦、同ビロード大巾三米、同食塩二升及同服掛金具三個ヲ擅ニ自宅ニ持帰リ若クハ同僚工員ニ贈与シ以テ之ガ横領ヲ遂ゲタリ」

との事実により、昭和二二年法律一二四号による改正前の刑法二五三条(業務上横領罪)、五五条(連続犯)が適用されて、懲役一年六月に処せられたことが認められる。

(本件再審請求原由)

本件再審請求の原由は、弁護人作成の再審請求書、再審請求事件に関する意見書記載のとおりであり、その要旨は次のとおりである。

原確定判決の判決書には「被告人ノ当公廷ニ於ケル供述」(以下「被告人の公判供述」ともいう)、「被告人ノ職務内容ニ関スル検察官ノ海軍技手勝部隆三ニ対スル聴取書」(以下「聴取書」ともいう)及び「勝部隆三提出ノ被害始末書」(以下「被害始末書」ともいう)のみが証拠として掲記されているが、

(1) 右勝部隆三が本件に関し検察官から(事情)聴取を受けたり、自ら被害始末書を提出した事実はなく、右聴取書及び被害始末書(以下両者を含め単に「勝部関係証拠」ともいう)はいずれも架空(偽造)のものであることが右勝部作成の昭和五六年二月付け証明書及び同人の供述により明白になつた、

(2) 被告人(亡臼井弘)は原確定判決に対し上告の申立をしており(その後上告取下)、本件当時軍法会議判決に対する上告は極めて稀有のことであり、被告人が法廷で自白していたかどうか疑わしいものであるうえ、本件当時舞鶴海軍工廠では通用門の出入りの際、厳重な身体、所持品検査が行なわれており、本件物品を工廠外へ持ち出すことは不可能又は著しく困難であつたこと及び被告人の当時の保管物品中に原確定判決掲記の食塩は存しなかつたことが関係者の供述から判明し、仮に被告人の公判供述が自白であつたとしても自白の真実性に重大な疑惑があることが明らかになつた

ものであり、右は旧刑事訴訟法四八五条六号所定の「無罪ヲ言渡スヘキ明確ナ証拠ヲ新ニ発見シタルトキ」に該当する、というものである。

(再審原由に対する当裁判所の判断)

一  原確定判決は昭和二〇年二月二三日に舞鶴鎮守府軍法会議が言い渡したものであるが、その事件記録は現在判決書原本を残すのみで、他はすべて廃棄されたものとみられる(廃棄の日時、経緯は不明)。そのため原確定判決がどのような証拠に基づき、どのような経過で、有罪認定に至つたかは専ら原確定判決書の記載のみによつて推論せざるをえないものであり、かかる本件の特殊事情を前提にして以下弁護人主張の再審請求原由につき検討する。

二  勝部関係証拠について

原確定判決書に「検察官ノ海軍技手勝部隆三ニ対スル聴取書」、「勝部隆三提出ノ被害始末書」としてその氏名が掲記されている元海軍技手勝部隆三は同人作成の証拠書(昭和五六年二月付)及び当裁判所の証人尋問において大要次のとおり供述する(以下「勝部供述」という。)。

「私は昭和五年ころから再び舞鶴海軍工廠に勤務し、昭和一八年七月海軍技手となり、昭和二〇年九月まで同工廠第一造兵部航海工場作業係に勤務しており、臼井弘の上司であつた。臼井弘は同航海工場の倉庫係として官給材料を管理していた。私は昭和一七年から同二〇年にかけて海軍法務官とか憲兵、特警班、上司などから物品管理に関する資料の提出を求められたり、その状況を尋ねられたことはない。私が作成したという被害始末書や臼井弘の職務内容に関する私の検察官に対する聴取書が臼井弘の軍法会議の判決書に証拠として挙げられていることは昭和五六年ころになつて石丸弁護士から知らされて初めて知つたことであり、私が被害始末書を提出したり検察官から聴取を受けたことは全くない。被害始末書を提出するなら工場主任(佐官級)の名で出すはずであるし、当時私は出張が多く、臼井弘が軍法会議を受けたころも私は出張中で工廠にいなかつたと思う。私の印鑑は、私の留守中も私の机の上に置き、それを使用する必要があるときは誰れでも使えるようにしていた。」

弁護人は、右勝部供述は信用性の高いものであるとし、本件当時、何者かが勝部になりすまして検察官の取調べを受け、勝部名義の検察官に対する聴取書が作成され、更に何人かが勝部の印鑑を勝手に使つて本件被害始末書を作成提出したものであると主張する。

そこで、右勝部供述が旧刑事訴訟法四八五条六号の「無罪ヲ言渡スヘキ明確ナ証拠」に該るか否かについて検討するに、(1)右勝部供述には裏付けとなる客観的資料が存しないうえ、供述の一部には客観的事実に反する部分(「被害始末書は工場主任の名で出すはずである。」旨供述するが、当時の舞鶴鎮守府軍法会議の判決書等の関係資料によれば、工廠内の窃盗事件につき技手、職手など勝部と同地位あるいは下位の者の提出にかかる被害始末書が多数存することが認められる)があること、(2)原確定判決書に公判立会検察官として記載されている元海軍法務中尉大野忠男(現在第一東京弁護士会所属弁護士)は当裁判所の証人尋問において、

「私は昭和一九年八月一日海軍法務中尉に任官し、同日から昭和二〇年一二月ころまで舞鶴鎮守府軍法会議に配属され、同軍法会議の裁判官、検察官を務めていた。本件について現在具体的な記憶は全くないが、判決書に公判立会検察官として私の氏名が記載されているから私が公判立会をしたことは間違いないと思うし、捜査も私が担当したと思う。勝部隆三提出の被害始末書は、工廠の特警班か警務班の人が勝部に書かせたものと思う。私は録事を通じて勝部を軍法会議の建物内の取調室へ呼び出したか、又は私自身が工廠へ出向いたか、いずれにしても勝部に被害始末書を示し同人が作つたものか否かを確認し、勝部の工廠における経歴などを聞いた上、被告人の職務内容に重点を置いて質問し、その結果を録事に口述して聴取書を作成したと思う。本件は窃盗罪か業務上横領罪か判断に迷つたので、特に職務内容に重点を置いて聴取書をとつたと思う。参考人を取り調べるときは、その住所、氏名、生年月日等本人を特定すべき事項を最初に確認し、聴取書の冒頭に書いたと思う。勝部でない人が勝部と名乗つて取調べに応じたとすれば、犯罪が昭和一七年から同二〇年ころまでの長期間にわたつているのでその間のことを聞くうちに、ぼろが出るのではないか。また、特警班又は特務班が別人を勝部に仕立て連れてくるようなことは、私としては考えられない。判決書に掲げられている勝部提出の被害始末書を勝部の部下が代書した可能性については、犯罪捜査を担当している者がその必要上作らせるものであるから、そのようなことはあり得ないと思うし、私が勝部に事情を聞くに当たり代書でないことを確認していると思う。勝部の聴取書は、勝部の面前で作つており、電話聴取書のようなものでない。被害始末書が真正に作成されたかどうかについては捜査、公判を通じて厳正に検討されたと考えてよいと思う。公判では、その検討は、裁判官が行つたと思う。決して軍法会議はいいかげんなことをしていたわけではない。」旨証言しており(なお、元海軍録事西野正も本件当時軍法会議においては捜査を担当した検察官が原則として公判立会をも担当していた旨供述しており、関係資料によれば、原確定判決が言い渡された昭和二〇年二月二三日には本件判決を含め一三件((一四名))につき判決が言い渡されているが、その際前記大野忠男を含め四名の検察官が各事件ごとに交替して立会していることが認められ、これは捜査を担当した検察官が当該事件の公判にも立会していたことを意味するものとみられる)、当時の捜査機関(検察官、特警班等)が勝部関係証拠を捏造したり、あるいは他の何者かが勝部の氏名を冒用して被害始末書を提出したり、勝部になりすまして検察官の聴取を受ける必要性は全く想定しがたいこと、(3)関係資料によれば、勝部が本件当時臼井弘の上司であつたことは明らかであり、勝部が捜査機関等に対し被害始末書を作成提出し、臼井弘の職務内容に関して検察官の事情聴取を受けることはその職制上極めて可能性の高いものであること、(4)勝部の知人でもある前記西野正は当裁判所の証人尋問において、「本件軍法会議の再審のことが新聞に載つてから勝部と会つて本件に関し話をした際、勝部は当時の記憶は定かでないと話していた。」旨供述しているところ、勝部は明治四一年三月生で昭和二〇年一月当時は三六歳であつたが、同人に対する当裁判所の証人尋問が施行された昭和五九年三月には七五歳の高齢になつており、その間四〇年近くの歳月が経過しているうえ、本件当時は太平洋戦争末期で、舞鶴海軍工廠も爆撃を受け多数の死者を出すなどの非常事態にあつたから、被害始末書を提出したり、検察官から事情聴取を受けたりすることは同人にとつて終生忘れ得ぬ体験であつたとも言い難く、長い時の経過の中で記憶が消失してしまつたとしても決して不自然ではないことなどの諸事情を併せ考えると、勝部供述は、その信用性に種々の疑念があり、原確定判決書自体の証明力等に照らし、同判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせるべき明らかな証拠とはいえない。

三  その余の主張について

当裁判所が取調べた関係資料によれば、弁護人主張のとおり被告人(臼井弘)が原確定判決に対しいつたん上告したこと、本件当時工廠では工員が退庁時札場(職札場)を通る際、守衛による所持品検査を受けていたことが認められるが、右事実によつても被告人が当時本件を自白していなかつたと推認することは困難であり、また右事実は自白の信用性に疑いを生じさせるものとも言い難い(ちなみに、関係資料によれば、本件当時、同工廠内で官品を窃取して自宅に持ち帰つて隠匿し、又は他へ売却した事件で多数の工員が同軍法会議で有罪判決を受けていることが認められ、退庁時の所持品検査は官品を工廠外へ持ち出すことを不可能ならしめていたものではない)。

なお、前記勝部や本件当時舞鶴海軍工廠で被告人の部下であつた中島純、同平岡一郎、同飯山石造は当時被告人の保管品の中に「食塩」はなかつた旨供述するが、関係資料によれば、当時被告人が保管管理していた倉庫内の官品は何百種類にも及んでいたと認められ、これらの保管品目を前記勝部らが正確に記憶していたかどうか疑問の余地があり、右各供述を裏付ける客観的資料も何ら存しないことなどを併せ考えると、右各供述も原確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせるものとはいえない。

四  よつて、弁護人の指摘する各証拠は旧刑事訴訟法四八五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」に該当せず、本件再審請求は理由がないから、旧刑事訴訟法五〇五条一項によりこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。

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